(1959-1-10) ●谷間に三つの鐘が鳴る - ブラウンズ
「The Billboard Hot 5」
08/24-4
The Three Bells - Browns
(谷間に三つの鐘が鳴る - ブラウンズ)
・彼らは、アーカンソー州スパークマン出身のカントリー系のファミリー・コーラス・グループ。ジム・エド・ブラウン(本名ジェームス・エドワード・ブラウン、1934年4月1日、アーカンソー州スパークマン生まれ)と姉のマキシン・ブラウン(1932年4月27日、ルイジアナ州キャンプチ生まれ)、妹のボニー・ブラウン(1937年7月31日、アーカンソー州スパークマン生まれ)のトリオ。マキシンが未だよちよち歩きの頃、家族はアーカンソー州パイン・ブラフ近郊の農場に移った。家族は土曜日の夜に放送されている「グランド・オール・オプリ」を良く聞いていた。ジムとマキシンは、番組から流れてくる彼らのアイドルを見習って、2人でハーモニーの練習をした。彼らの両親の励ましもあって、2人は未だ高校生だったが音楽活動を開始した。1952年、ジムはタレント・コンテストで2位となりマキシンが加わり2人で、ローカル・ラジオ局の番組を持つ様になった。最初はパイン・ブラフのKCLAで、後にリトル・ロックのKIRAのバーンヤード・フローリックのショーだった。1954年、2人はフェイバー・レコードと契約し、同社から5枚のシングルをリリースした。彼らはノベルティ・ソング「Looking Back To See」をリリース、1954年夏、トップ10・ヒットとなった。同曲は全国的にも放送され、2人は全国放送のアーネスト・タブ・ショーに出演した。1955年、末妹ボニーが高校を卒業して加わり、御馴染みのブラウンズとなった。同年暮れ、「Here Today And Gone Tomorrow」が2曲目のトップ10・ヒットとなった。彼らはエルヴィス・プレスリーとツアーを行い、もう1度全国放送のオザーク・ジュビリーに出演した。1956年、彼らはRCAと契約し、ファースト・アルバムと2曲のヒット曲「I Take The Chance」、「I Heard The Bluebirds Sing」を録音した。しかしながら1957年、ジムが軍隊に行く事となった、それで、グループを維持するため一時的に、ジムの替わりにもう1人の妹ノーマを参加させる事にした。軍務を終えジムが戻り、彼らは此の「The Three Bells(谷間に三つの鐘が鳴る)」を録音した。元々、此のシングルを最後にして彼らは解散しようとしたが、1959年8月、4週連続全米1位となる大ヒットとなった。此の成功で解散は延期となり、エド・サリヴァン・ショー、ディック・クラークのアメリカン・バンドスタンドに出演する様になった。此の年のグラミー賞の年間最優秀レコード賞と、最優秀ヴォーカル・グループ・パフォーマンス賞にノミネートされた。しかし、前者はボビー・ダーリンの「Mack The Knife(匕首マッキー (マック・ザ・ナイフ))」、後者はモルモン・タバナクル聖歌隊の「The Battle Hymn Of The Republic(リパブリック讃歌)」が受賞した。皮肉な事に、最優秀カントリー・ソング賞と最優秀C&W・パフォーマンス賞は、ジョニー・ホートンの「The Battle Of New Orleans(ニュー・オーリンズの戦い)」が受賞し、ブラウンズの「The Three Bells(谷間に三つの鐘が鳴る)」は、カテゴリーには当て嵌まらないと言う事で、ノミネートさえされなかった。「Scarlet Ribbons(For Her Hair)(赤いリボン、1960年2月全米13位、カントリー・チャート7位)」、「The Old Lamplighter(オールド・ランプライター、1960年6月、全米5位)」等のヒットを放ったが、1963年、彼らは自分達のカントリー・フォーク・スタイルは、余りにもポップになり過ぎていると気付き、「グランド・オール・オプリ」の出演を控える様になった。1964年の彼らのアルバム「Grand Ole Opry Favorites」は、カントリー・ステージでの彼らの仕事の実証だった。彼らの「グランド・オール・オプリ」の最後の出演は、1966年だった。彼らは8年連続して、最優秀ヴォーカル・グループにノミネートされた。1965年、ジムはRCAで、チェット・アトキンスの助力でソロ活動をスタートし、1967年、ブラウンズは解散した。
その後、ジムはソロ活動を続け、彼の代表曲「Pop A Top(1967年、カントリ・チャート10位)」、「Morning(1970年、全米47位、カントリー・チャート4位)」、「Angel's Sunday(1971年)」、「Southern Loving(1973年)」、「Sometime Sunshine(1974年)」、「It's That Time Of Night(1974年)」等のヒットを放った。1976年、ヘレン・コーネリアスとデュエット活動も始め「I Don't Wanna Have To Marry You(1976年、カントリー・チャート1位)」、「Saying Hello,Saying I Love You,Saying Goodbye(1977年)」、「Born Believer(1977年)」、「I'll Never Be Free(1978年)」、「If The World Ran Out Of Love Tonight(1978年)」、「You Don't Bring Me Flowers(ニール・ダイアモンドとバーブラ・ストライサンドのカヴァー、1979年)」、「Lying In Love With You(1979年)」、「Fools(1979年)」、「Morning Comes Too Early(1980年)」、「Don't Bother To Knock(1981年)」等のヒットを放った。また、「Jim Ed Brown's Country Place」、「Nashville On The Road」、「You Can Be A Star」、「Going Our Way」等、自分の番組を持った。1981年までRCAに在籍し、1986年からMCAに在籍、今現在も現役で活動し、ラジオ番組「Country Music Greats Radio Show」、「The Monday through Friday Vignette,Country Music Greats Radio Minute」を持ち、2つの番組は250局以上がネットし、2億人以上が聴いている。また、「グランド・オール・オプリ」の現役ソロ・アーティスト・メンバーである。彼は妻のベッキーと、テネシー州ブレントウッドに居住している。
マキシンは1960年代後半までソロ活動を行い、チャート・レコードより「Sugar Cane Country」と言うシングルとアルバムをリリースした。その後主婦業に専念し、2005年、「Looking Back To See: A Country Music Memoir」と言う自叙伝を出版した。此の中で彼女は正直に勇敢なスタイルで、1950年代から1960年代のアメリカの音楽ビジネスについて明かしている。
ボニーは、解散後は主婦業に専念した。2006年、ブラウンズはPBS・スペシャルの「Country Pop Legends」と言う番組で再結成し、「The Old Lamplighter(オールド・ランプライター)」と「The Three Bells(谷間に三つの鐘が鳴る)」を演奏した。
此の作品は、元々、1945年にベルト・ライスフェルト作詞、ジャン・ヴィラード作曲のシャンソン「Les trois cloches」が原曲で、嘗てはエディット・ピアフ等によっても歌われていた。1948年にディック・マニングによって英詞が付けられ、ブラウンズの歌で世界的に知られる様になった。ジミー・ブラウンと言う平凡な男の生涯を「誕生・結婚・葬儀」と言う人生の節目を3つの鐘に譬えて歌ったレクイエムで、特に後半に行くに従い心に染み入って行く楽曲である。此れは彼らの代名詞となっている楽曲で、取り上げたのは彼らの母親の勧めだったと言う。全米4週連続1位の他、カントリー・チャート、R&B・チャートでも1位となりミリオン・セラーを記録した。同年10月、ディック・フラッドのヴァージョンが全米23位に入った。ブライアン・プール&トレメローズ、レイ・チャールズ、ナナ・ムスクーリ、ロイ・オービソン、チェット・アトキンス等、数多くカヴァーされている。
●アーティスト・インデックス・B
http://46309727.at.webry.info/200001/article_5.html
●1959年 (昭和34年) ホット5・リスト
http://46309727.at.webry.info/200006/article_19.html
08/24-4
The Three Bells - Browns
(谷間に三つの鐘が鳴る - ブラウンズ)
・彼らは、アーカンソー州スパークマン出身のカントリー系のファミリー・コーラス・グループ。ジム・エド・ブラウン(本名ジェームス・エドワード・ブラウン、1934年4月1日、アーカンソー州スパークマン生まれ)と姉のマキシン・ブラウン(1932年4月27日、ルイジアナ州キャンプチ生まれ)、妹のボニー・ブラウン(1937年7月31日、アーカンソー州スパークマン生まれ)のトリオ。マキシンが未だよちよち歩きの頃、家族はアーカンソー州パイン・ブラフ近郊の農場に移った。家族は土曜日の夜に放送されている「グランド・オール・オプリ」を良く聞いていた。ジムとマキシンは、番組から流れてくる彼らのアイドルを見習って、2人でハーモニーの練習をした。彼らの両親の励ましもあって、2人は未だ高校生だったが音楽活動を開始した。1952年、ジムはタレント・コンテストで2位となりマキシンが加わり2人で、ローカル・ラジオ局の番組を持つ様になった。最初はパイン・ブラフのKCLAで、後にリトル・ロックのKIRAのバーンヤード・フローリックのショーだった。1954年、2人はフェイバー・レコードと契約し、同社から5枚のシングルをリリースした。彼らはノベルティ・ソング「Looking Back To See」をリリース、1954年夏、トップ10・ヒットとなった。同曲は全国的にも放送され、2人は全国放送のアーネスト・タブ・ショーに出演した。1955年、末妹ボニーが高校を卒業して加わり、御馴染みのブラウンズとなった。同年暮れ、「Here Today And Gone Tomorrow」が2曲目のトップ10・ヒットとなった。彼らはエルヴィス・プレスリーとツアーを行い、もう1度全国放送のオザーク・ジュビリーに出演した。1956年、彼らはRCAと契約し、ファースト・アルバムと2曲のヒット曲「I Take The Chance」、「I Heard The Bluebirds Sing」を録音した。しかしながら1957年、ジムが軍隊に行く事となった、それで、グループを維持するため一時的に、ジムの替わりにもう1人の妹ノーマを参加させる事にした。軍務を終えジムが戻り、彼らは此の「The Three Bells(谷間に三つの鐘が鳴る)」を録音した。元々、此のシングルを最後にして彼らは解散しようとしたが、1959年8月、4週連続全米1位となる大ヒットとなった。此の成功で解散は延期となり、エド・サリヴァン・ショー、ディック・クラークのアメリカン・バンドスタンドに出演する様になった。此の年のグラミー賞の年間最優秀レコード賞と、最優秀ヴォーカル・グループ・パフォーマンス賞にノミネートされた。しかし、前者はボビー・ダーリンの「Mack The Knife(匕首マッキー (マック・ザ・ナイフ))」、後者はモルモン・タバナクル聖歌隊の「The Battle Hymn Of The Republic(リパブリック讃歌)」が受賞した。皮肉な事に、最優秀カントリー・ソング賞と最優秀C&W・パフォーマンス賞は、ジョニー・ホートンの「The Battle Of New Orleans(ニュー・オーリンズの戦い)」が受賞し、ブラウンズの「The Three Bells(谷間に三つの鐘が鳴る)」は、カテゴリーには当て嵌まらないと言う事で、ノミネートさえされなかった。「Scarlet Ribbons(For Her Hair)(赤いリボン、1960年2月全米13位、カントリー・チャート7位)」、「The Old Lamplighter(オールド・ランプライター、1960年6月、全米5位)」等のヒットを放ったが、1963年、彼らは自分達のカントリー・フォーク・スタイルは、余りにもポップになり過ぎていると気付き、「グランド・オール・オプリ」の出演を控える様になった。1964年の彼らのアルバム「Grand Ole Opry Favorites」は、カントリー・ステージでの彼らの仕事の実証だった。彼らの「グランド・オール・オプリ」の最後の出演は、1966年だった。彼らは8年連続して、最優秀ヴォーカル・グループにノミネートされた。1965年、ジムはRCAで、チェット・アトキンスの助力でソロ活動をスタートし、1967年、ブラウンズは解散した。その後、ジムはソロ活動を続け、彼の代表曲「Pop A Top(1967年、カントリ・チャート10位)」、「Morning(1970年、全米47位、カントリー・チャート4位)」、「Angel's Sunday(1971年)」、「Southern Loving(1973年)」、「Sometime Sunshine(1974年)」、「It's That Time Of Night(1974年)」等のヒットを放った。1976年、ヘレン・コーネリアスとデュエット活動も始め「I Don't Wanna Have To Marry You(1976年、カントリー・チャート1位)」、「Saying Hello,Saying I Love You,Saying Goodbye(1977年)」、「Born Believer(1977年)」、「I'll Never Be Free(1978年)」、「If The World Ran Out Of Love Tonight(1978年)」、「You Don't Bring Me Flowers(ニール・ダイアモンドとバーブラ・ストライサンドのカヴァー、1979年)」、「Lying In Love With You(1979年)」、「Fools(1979年)」、「Morning Comes Too Early(1980年)」、「Don't Bother To Knock(1981年)」等のヒットを放った。また、「Jim Ed Brown's Country Place」、「Nashville On The Road」、「You Can Be A Star」、「Going Our Way」等、自分の番組を持った。1981年までRCAに在籍し、1986年からMCAに在籍、今現在も現役で活動し、ラジオ番組「Country Music Greats Radio Show」、「The Monday through Friday Vignette,Country Music Greats Radio Minute」を持ち、2つの番組は250局以上がネットし、2億人以上が聴いている。また、「グランド・オール・オプリ」の現役ソロ・アーティスト・メンバーである。彼は妻のベッキーと、テネシー州ブレントウッドに居住している。
マキシンは1960年代後半までソロ活動を行い、チャート・レコードより「Sugar Cane Country」と言うシングルとアルバムをリリースした。その後主婦業に専念し、2005年、「Looking Back To See: A Country Music Memoir」と言う自叙伝を出版した。此の中で彼女は正直に勇敢なスタイルで、1950年代から1960年代のアメリカの音楽ビジネスについて明かしている。
ボニーは、解散後は主婦業に専念した。2006年、ブラウンズはPBS・スペシャルの「Country Pop Legends」と言う番組で再結成し、「The Old Lamplighter(オールド・ランプライター)」と「The Three Bells(谷間に三つの鐘が鳴る)」を演奏した。
此の作品は、元々、1945年にベルト・ライスフェルト作詞、ジャン・ヴィラード作曲のシャンソン「Les trois cloches」が原曲で、嘗てはエディット・ピアフ等によっても歌われていた。1948年にディック・マニングによって英詞が付けられ、ブラウンズの歌で世界的に知られる様になった。ジミー・ブラウンと言う平凡な男の生涯を「誕生・結婚・葬儀」と言う人生の節目を3つの鐘に譬えて歌ったレクイエムで、特に後半に行くに従い心に染み入って行く楽曲である。此れは彼らの代名詞となっている楽曲で、取り上げたのは彼らの母親の勧めだったと言う。全米4週連続1位の他、カントリー・チャート、R&B・チャートでも1位となりミリオン・セラーを記録した。同年10月、ディック・フラッドのヴァージョンが全米23位に入った。ブライアン・プール&トレメローズ、レイ・チャールズ、ナナ・ムスクーリ、ロイ・オービソン、チェット・アトキンス等、数多くカヴァーされている。
●アーティスト・インデックス・B
http://46309727.at.webry.info/200001/article_5.html
●1959年 (昭和34年) ホット5・リスト
http://46309727.at.webry.info/200006/article_19.html
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