油すましの独り言・・・。(洋楽編)

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zoom RSS (1958-3-03) ●スプリッシュ・スプラッシュ - ボビー・ダーリン

<<   作成日時 : 2000/05/26 00:30   >>

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「The Billboard Hot 5」
08/04-1
Splish Splash - Bobby Darin
(スプリッシュ・スプラッシュ - ボビー・ダーリン)

画像・彼は、本名をウォルデン・ロバート・カソットと言い、1936年5月14日、イタリア系アメリカ人としてニュー・ヨーク州のブロンクスに生まれた。しかし、彼が生まれた時には既に父親の姿は此の世に無く、ショー・ビジネス界で育ったと言う母親、ニーナのもと少年の頃よりギター、ピアノ、ドラム等をマスターした。心臓病で15歳までしか生きられないと宣告された彼だが、音楽と出会い、スターを夢み、生きる力を得た。ブロンクス科学高校を経てマンハッタンのハンター大学時代には音楽と共に演劇にも力を注いだ。その頃には既に、幾つかの曲も書いていた様で、大学を卒業する事無くドン・カーシュナーが主宰するアルドン音楽出版社に入社し、同時に電話帳から取ったと言うボビー・ダーリンの芸名で、1956年、ジャイパーズなるグループと一緒にデッカ・レコードよりデビューした。最初のシングルはイギリスのロック・シンガー、ドニー・ドネガンの曲をカヴァーした「Rock Island Line(ロック・アイランド・ライン)」だった。結局、同社では4枚のシングルをリリースしたが何れも不発に終わった。間もなくトミー・ドーシーのTVショーに出演するチャンスを掴み、それを機会にアトランティック・レコードに入社した。同系列のアトコ・レーベルから1958年にリリースされた此の「Splish Splash(スプリッシュ・スプラッシュ)」が全米3位に入る大ヒットとなり、一躍スターダムにのし上がった。此のヒットで勢いづいた彼は、以後も「Early In The Morning(アーリー・イン・ザ・モーニング、1959年、元々はディング・ドングス名義でブランズウィック・レコードで録音されたもの)」、「Dream Lover(ドリーム・ラヴァー、1959年全米2位、全英1位)」等をヒットさせた。当時既に、ボビー・ダーリンの名は十分知られていたが、更にその名を轟かせたのは1959年の全米1位曲、「Mack The Knife(匕首マッキー (マック・ザ・ナイフ)」だった。それまでに多くのアーティスト達によって取り上げられていた同曲を、彼はジャジーな感覚で歌い上げ、グラミー賞最優秀レコード賞と最優秀新人アーティスト賞を受賞した。言わばロックンローラーからポピュラー・ヴォーカリストへと転身する切っ掛けともなった記念作でもあった。そんな「Mack The Knife(匕首マッキー (マック・ザ・ナイフ)」に続いて発売されたのが、此れもスタンダードをカヴァーした「Beyond The Sea(海の彼方に〜ビヨンド・ザ・シー、1960年全米6位)」や「Clementine(いとしのクレメンタイン、1960年全米29位)」だったのも興味深い選曲で、何れもヒットした。また、1960年にはスクリーンへのデビューも果たし、同年春に結婚した女優サンドラ・ディー(1960年12月1日、ニュー・ジャージー州キャムデンで結婚、1967年離婚)との共演による「Come September(九月になれば)」に初出演した。以後も彼女との共演作を含む「Pepe(ペペ、1960年)」、「Hell Is For Heroes(突撃隊、1962年)」、「State Fair(ステート・フェア、1962年)」、「Gunfight in Abilene(早射ちガンマン、1966年)」等、幾つかの映画に出演した。特に1963年の「Captain Newman, M.D.(ニューマンという男)」ではアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたが、それと前後して1962年7月、カウント・ベイシー楽団らと共にラス・ヴェガスのホテル「フラミンゴ」に長期出演し、大変な人気を博した。同年9月、長年在籍したアトランティックからキャピトル・レコードに移籍した。同年秋にサンドラ・ディーとの共演による映画「If A Man Answers(電話にご用心)」の主題歌をヒットさせた(全米32位)。同社では以後も数枚のシングルやアルバムを発表したが、トップ10入りしたのは「You're The Reason I'm Living(君のための僕、1963年全米3位)」と「18 Yellow Roses(別れのイエロー・ローズ、1963年全米10位)」の2曲だけだった。そんな訳で、1965年、キャピトル・レコードで最後のヒットとなった「Hello Dolly(ハロー・ドーリー、全米79位)」を境に再びアトランティックに移籍した。1967年まで在籍したが1966年秋にリリースしたティム・ハーディンのペンによる「If I Where A Carpenter(この小さな願い)」が全米8位に上がった程度で、往年の勢いを取り戻す事は出来なかった。折りしもアメリカではその間にビートルズを初めとするイギリス勢の台頭、所謂、ブリティシュ・インヴェイジョンやサイケデリック・サウンド、フォーク・ロックの流行等、彼にとっては向かい風となる材料が多々あった事も不運な出来事だったと言えた。かくして1968年、自らデイレクション・レーベルを設立し、5枚ほどのシングルと1枚のアルバムをリリースしたが、ヒット・チャートにランクされたのは1969年の「Long Line Rider(ロング・ライン・ライダー)」のみだった(全米79位)。1970年代初頭、タキシードからGパンに着替えてフォーク歌手に変身し反戦歌を歌った。政治活動も開始したが(サンドラ・ディーとの離婚の要因の1つ)、応援していたロバート・ケネディの暗殺事件以後は政治活動を中止して歌手活動に戻った。更に1973年初め、NBS-TVから「ボビー・ダーリン・ショー」が放映されたのを機会に、新たにモータウン・レコードと契約し、ダイアナ・ロス主演の映画「Lady Sings The Blues(ビリー・ホリディ物語 奇妙な果実)」のミュージカル版で指揮を務めた事から挿入歌の「Happy(ハッピー)」をリリースした。同曲が最後のヒットとなった(全米67位)。同年6月、アンドレア・イェーガーと再婚した。1973年、TV番組のゲストに呼ばれたりラス・ヴェガスのショーにも出演していたが、若い頃からリューマチ熱のために心臓を病んでいた彼は、此の頃から体が病魔に蝕まれ、しばしば公演後には酸素を補給しなければならない位だった。歯医者を訪れた後、処方された薬が悪く敗血症になり彼の体は衰弱し、また心臓のベンの1つが固まっていたのも見つかった。同年12月11日、ロサンゼルスのシーダーズ・サイナイ・メディカル・センターに先ず、2つの人工心臓弁を付けるために入院した。1973年12月20日、手術の甲斐も無く死去。享年37歳。葬式は行われず彼の遺体はUCLAに献体された。彼の死の直前、2番目の妻のアンドレアと彼は離婚していた。此れは彼の死の苦痛から彼女を遠ざけるためのものであった。最初の妻のサンドラは再婚しなかった。1990年、ロックンロールの殿堂入りを果たした。お祝いのスピーチはポール・アンカが行った。1999年、ソングライターの殿堂入りを果たした。「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」に星型のプレートと共に名前が彫られた。2004年、ケヴィン・スペーシー主演で彼の伝記映画「Beyond The Sea(ビヨンド・the・シー〜夢見るように歌えば〜)」が公開された。2007年5月14日、「ラス・ヴェガス・ウォーク・オブ・スターズ」に星型のプレートと共に名前が彫られた。同年12月、ヒット・パレードの殿堂入りを果たした。ボビー・ダーリンは14年間のキャリアでレコーディングした曲は、アダルト・ポップスを始め、ロック、R&B、フォーク、カントリー等、幅広いジャンルに渡り、トップ40入りのヒットが22曲、その内10曲がトップ10入りした。歌手以外でも、俳優としての映画出演、TV番組のホスト等も数多く務め、「カリスマ的天才エンターテイナー」とも称されが、37歳での死は余りにも早過ぎた。
此の作品は、様々な曲名(ロリポップ、ペギー・スー、悪魔とモリー)等を織り込んだノヴェルティ・タイプの作品で、ボビーがディスク・ジョッキーのマレー・カウフマンことジーン・マレーと合作したもの。僅か12分ほどで書かれたもので、アトランティックの社長、アーメット・アーテガンが自らプロデュースを担当した。「Splish Splash, I Was Takin' A Bath」と言う部分は、マレーの母親、ジーン・カウフマンによって示された。彼がブレイクした切っ掛けになった曲で、若々しくシャウトする歌声とロックンロール色の強いアップ・テンポのリズムは、ロックンロール華やかな如何にも此の時代の作品であると言える。

●他のチャート・イン曲です。
 (1959年1位 - 匕首マッキー (マック・ザ・ナイフ))
 http://46309727.at.webry.info/200007/article_1.html

 (1958年2位 - ドリーム・ラヴァー)
 http://46309727.at.webry.info/200007/article_12.html



●アーティスト・インデックス・B
  http://46309727.at.webry.info/200001/article_5.html

●1958年 (昭和33年) ホット5・リスト
  http://46309727.at.webry.info/200004/article_27.html

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●更新履歴=1959年52曲/53曲掲載済(09/10/06)。
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